朝日新聞夕刊:時のかたち

*無断転載厳禁*


歌手と健康(6/10) ■ 深夜のひらめき(6/11)  ■ 援農の苦役(6/12)
口先の外国語(6/13) ■ 改訂版 蝶々夫人(6/14)



歌手と健康
 

 70の声を聞いたらもう歌っていないだろうと昔は思っていたが、低声のせいで今が最高だ−−−一寸先は闇だが。ソプラノやテナーなどの高い声は早くデビューし早く終わる(例外はある)。僕が歌劇場専属になったのは35歳の時だったから、プロとしてまだ人生の半分しか歌っていないのだ。
 当然だが、体力維持の秘訣は運動。我が家から20分歩くと駒沢オリンピック公園内のトレーニングセンターに着く。運動着に着替えストレッチ。固定自転車に加重して30分漕ぐ。汗びっしょり。下半身の筋トレを15分。声に障る(と信じている)ので上半身は全然やらない。再びストレッチ。シャワーを浴び着替えてまた20分歩き帰宅。計約2時間半。これを週約3回、旅先ではホテルのジムで、ジムが無いと1時間の散歩。今や、運動をやらないと体がなまるような気になる。
 往復40分の徒歩中に次の音楽会で歌う曲の歌詞を、半ば声を出して歌いつつ、ぶつぶつ機械的に、ひたすら繰り返す。昔は恥ずかしかったが、今は独りで携帯電話と話しながら歩く人が多いので全然気にならない。特に帰り道は、運動とシャワー後の脳によく刻みつきはかがいく。暗譜方法としてこのぶつぶつほど効果的なものはない。
 僕はその昔の交通事故で6級身障者。都営のトレーニングセンターは身障者手帳を提示すれば、適切な指導員のアドヴァイスを含め全て無料。
 かくして僕は、歌手人生の一番良い時期をより永く保つべく運動に励むのである。

2002年6月10日

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深夜のひらめき
 

 僕は待つ、深夜トイレに起きベッドに戻った時の頭のひらめきを!予期せぬ思いはこのときにやってくる。俺は天才だ! すぐ書き溜め、また眠る。翌朝それを膨らませてピアニストと歌う、原稿を書く(この文もそうだ)、演出プランを練る、カミさんを説得する、等々。
 H・ヴォルフという天才作曲家は脳梅毒を患い、いつかやってくるひらめきをひたすら待ち歌を書いた。この程度の文しか書けない鼻くそのような僕のひらめきは、だが、僕にとりヴォルフに匹敵するほど貴重だ!
 昨夜は昼間いくら考えても解決できなかった来月上演の歌劇「魔笛」中、懸案のフィナーレ演出方法がひらめいた−−−天使がかざす魔法の笛と鈴の力で試練を乗り越え結ばれる二組の男女、高僧、その代弁者、僧侶、平民の合唱という、階級順に上から下に人間ピラミッドを、せりが舞台平面より上に上がらないコンサート用ホール「ティアラこうとう」の舞台で、どう創るか−−−。
 下がったせり上に舞台下で段差のある台をいくつか乗せて舞台平面状にせり上げ、客の目線を合唱の人垣で遮り、台を彼らの手でスライドさせ歌手たちを台上に乗せる!
 全国で上質廉価な上演をするのだから、会場を選ばない。せり設備のない寒河江市と鶴岡市の公演ではリフターを導入。早い舞台転換と経費節約のため4枚のパネルを表裏八面に使い分け装置に使うのも、深夜のひらめきだ。
 さて今夜は!? 期待に満ちてベッドに潜り込もう。

2002年6月11日

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援農の苦役
 

 あの体験があったからこそ、その後どんな苦労にも耐えたのに!
 もう半世紀以上の昔、北海道・旭川の隣の寒村・比布。中学生の僕は相棒と二人一組で援農にかり出されていた。
 戦場に出すには幼すぎる中学生を農家に泊まり込ませ食料増産に使役したのが援農と称する軍国日本の国策だった。春まだ浅きとき、札幌の中学生の僕らは停留場のようなちっぽけな国鉄・比布駅に降り、荷物のように農家の人たちに引き取られた。
 朝日が昇ると同時に僕らは、中年なのに腰の曲がったお父さんに連れられ水田に入る。おぼつかない手つきで苗植え。苗が伸び始めると、泥土に腰まで浸かり稲より遥かに逞しい雑草を引き抜き、根っこを上に逆さに埋めて退治。すぐに奴らは顔を出すのでまたやり直し。昼ごろに通る汽車を合図に畦で握り飯の昼食。米作農家だから米だけはあったが、おかずは塩だけ。
 日が落ちて働けなくなりやっと開放。家の前の小川で足を洗い、畦の草や南瓜のへたを塩漬けにしたおかずの夕食をむさぼる。煎餅布団にくるまり泥のように眠る前に裸になり、背中をはうシラミを相棒と取り合う。
 月に一回、我々学生に配給になった塩漬け鰈が一家最高のご馳走。産んだばかりの赤子が栄養失調で死に「これが悪い!」とおっぱいを叩いて泣いたおばさんは「学生さん食べな」と自分の分まで我々に出した。
 人間は忘れっぽい!この使い捨て生活は何だ。あの体験はどう生かされているんだ!

2002年6月12日

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口先の外国語
 

 日本にいると外国語を喋るのがステータスになっているのに驚く。
 水の都ヴェネツィア。蒸気船の上でドイツ人がイタリア人にドイツ語で何やら尋ねた。ごく簡単なことだった。イタリア人は「全くわからない」と答えたが、それがドイツ人には通じない。ということが傍らの僕には分かった。
 僕は独・伊両語で通訳した。アジア人の通訳に二人はびっくり!鼻が高かった。「あんたは中国人か?」やり取りを聞いていたアメリカ人が英語で話しかけた。「日本人だ」「日本では英語を話すのか?」「当然だが日本語で俺たちは話す」。威張ったが内心で舌を出した。
 僕はそのとき既にイタリアとドイツでの数年ずつの生活を経験していたし、全く言葉が分からずに伊・独での生活を始めた時は、イヤでも英語に頼らざるをえなかったから、その程度の日常会話は何とかなった。
 僕のような外人オペラ歌手は劇場で発音を散々しぼられる。オーケストラパートをピアノで弾き歌手に暗譜させるコーチ役に、演出家に、指揮者に、そして何より聴衆に!
 だから、ニュースを読むアナウンサーの言葉は半分も分からないが、発音だけは悪くない。でも僕の言葉がだめなことは僕がよく知っている。
 かかる口先だけの外国語は、あのヴェネツィアでもバレず、日本では英独伊語を操るということになっているようだ。穴にでも入りたい!
 外国語会話勉強がよい商売になる島国日本は、先進国で一番言葉の下手な国だろう。

2002年6月13日

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改訂版 蝶々夫人
 

 百年ほど昔、オペラ「蝶々夫人」初演当時。遥かに遠い日本の姿は正しく書かれず、いまだそのまま上演されている。
 オペラは白人が白人のために創り上演してきた舞台芸術である。プッチーニは遠い東洋の娘「蝶々さん」が、港を渡り歩く米軍海軍士官ピンカートンと恋に落ち、子ををなして捨てられ自刃して果てる姿を欧米人のために殆ど想像で書いた。
 長崎の蝶々さんの家の庭の彼方に見えるはずのない富士山の姿。彼女は家に下駄履きのまま入る。蝶々さんの叔父、仏門の僧侶ぼんぞーは、「経
華蓮法妙無南」(※)と下から上に、逆さに書かれた神社のミニチュア鳥居をワシ掴みに、ちょんまげ頭で「かみ、さるんだしーこ」と神道の猿田彦の神だと考えるしかないへんてこな呪いを叫ぶ。蝶々さんの侍女すずきは仏壇の前に額ずき「いざなぎいざなみ」と祝詞をあげる。当時の長崎の住人がイタリア語で全部歌い若い米国軍人の前に跪く。お客はチンプンカンプン。
 こういう国辱的な日本誤認を改める台本を書いた。恋人を通じ言葉を理解するようになった蝶々さん、ピンカートンに接するすずき、長崎在住の米国領事、外人と日本女性との結婚周旋人ゴローの4人は、伊語と日本語を理解する設定で、他の日本人は皆日本語だけで、ピンカートンは伊語だけで、それぞれ歌う。「NPOみんなのオペラ」来夏上演のためだ。
 入場料を安くするだけでなく、前知識無しで楽しめなければ、オペラは神棚に止まるしかない。

2002年6月14日

※・・・原文では「南無妙法蓮華経」が縦書きで下から上へと逆さに記述してありますが、
ホームページが横書きの環境のため、このように記載致しました。ご了承ください。


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岡村先生のご許可を戴き、掲載致しております。
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