11.白人アレルギーを追放した終戦記念日

 僕の亡き両親は、二人とも大学で英語の学問を専攻した。ともに明治生まれ。父は英法、母は英文学である。
 終戦後間もなく、東京の街にアメリカ兵たちがかっ歩したころ、母は大学出の兵士を自宅に招き、僕や弟、親せきの子たちを集めて、英会話の講習会を主催した。積極的にアメリカ人と接触した日本人の一人である。父は会話を習っている家族をしり目に、決して自分は習いには来ない。そのくせアメリカ人が来ると、きまって狭い庭に出てシャベルを手にした。そして好奇心満々で中の様子をうかがった。浴衣のしりをからげ、褌をのぞかせ。
「毛唐が来たからって、遠慮することはない」。
 母や僕らの強力な抗議に、彼は威張って答え、自分の息子のようなアメリカ青年と視線が合うと、照れかくしに大声で「ハロー!!」とがなって手を振った。典型的な白人アレルギーの日本人の一人であった。
 母の大学では白人教師が実際に教壇に立っていた。父は日本人の先生にだけ習った。いずれにせよ、二人ともアメリカ兵が入ってくるまでは、理屈で英語を学び、白人と肌で接していなかった。
 約百二十年前、わが国は鎖国を解除した。以来約八十年、われわれ日本人は外交官、留学生など、ごく一部の限られた人を除き、僕の両親のごとく、理屈だけで、白人文明・文化を摂取してきた。
 そして国民レベルでわが国歴史上初めて、四十五年前の終戦を境に、白人=初めはアメリカ人だけだが=と肌で付き合い始めた。明治生まれの両親だけでなく、鬼畜米英、と戦争中教えられ続けた、僕のごとき昭和一ケタ生まれの少年も、彼らが一体自分たちと同じ人類なのかどうか、誰もが興味しんしんだった。
 この島国はこれから本当の国際化時代を迎えようとしている。銀座の路上で白人が物を売る今とあの頃とを比べると、隔世の感がある。
 終戦記念日は日本が平和を迎えた日、白人と肌で接しはじめた日、白人アレルギーを追放し始めた日である。