26.どの派にも属さない我流は善流

「ご出身校は」と聞くと「早稲田です」「慶応です」という答えはすぐに返ってくる。しかし「東大です」という答えには、いつもためらいの響きがある。
 最高ステータスの学歴を誇示している印象を避けようとするがためだ。
 それに次ぐとされる早慶はためらいがないが、それ以下と格付けされている大学だと、特に相手がランクが上の大学出身の場合、ためらい、時には「つまらないとこですが」と答える。
 皆とはいわないが大体そうだ。
 こんなことは外国にはない。
 学校だけではなく、議員、大会社、クラブなどのバッジを背広の襟に付ける日本人は、派をなして格付けするのが好きである。先輩後輩という、派の中での一つの序列を端的に示す言葉は、欧米語にはない。
 剣道、茶道、華道など、日本古来の流派がそうであった。派の格付け、そしてその中での家元、免許皆伝、師範などの序列は、国民的コンセンサスとして、犯すべからざるものであった。
 血縁社会日本においては、異種混合の欧米社会と異なり、派をなすことによって他派と競い合い、序列を作ることによって、派の中で競わせた。
 洋の東西を問わず人間の競争は身近なほど激しい。
 机を並べてきた同僚に、ほんのちょっとでも追い抜かれることは、他の部の者の二階級昇進より、はるかにサラリーマンの痛恨である。日本人の勤勉さ、それゆえの経済的大発展は、一に、日本という近親社会の競争原理にあったと思う。
 しかし、派をなし、格付けをし、その権威を貴ぶことは個を押しつぶすことにつながってきた。わが国では、どの派にも属さないものを我流、自己流と呼んでさげすむ。
 欧米では何派にも属さないものが個を確立したと貴ばれる。Independent = 独立はdepend――付属 = 奴隷、in = しないという意味である。
 国際化社会の今、個の確立のため、我流は善流であることを認識すべきである。