39.上野・奏楽堂と第二国立劇場

 約百年前に建てられた日本最古のホール、東京芸術大学の奏楽堂がついこないだ、もとの場所からほんの数百メートルの上野公園に移転復元され、再び音楽創造の道を歩き始めた。
 滝廉太郎、山田耕筰、三浦環、等々の洋楽の先達たちが活躍した、記念すべき建物が木造で老朽化、また芸大の学生数が増加し、今日的演奏会のためには四百席に満たない狭さが原因で、愛知県犬山市の明治村に解体され強制疎開されそうになったのが十年前。それが今東京・台東区の運営で一般市民も使用できる開かれた奏楽堂として再生するまでいかに起伏に富み、たった数百メートル移転の道のりがいかに長かったかをつづった本『上野奏楽堂物語』(東京新聞出版局)を読み、僕はあまりにも第二国立劇場と似たパターンなのに驚いた。
 第二国立劇場は、千八百席のオペラ劇場を中心に、計三つの現代劇場上演の、初の国立劇場として設計コンペも終わり、新宿区初台に四年後オープンの予定ではや、着工を待つばかりとなった。
 初台という場所と千八百という座席に、著名芸術家たちから反対意見が出され、マスコミも大きく報道、世論が喚起されたのは記憶に新しい。
 奏楽堂も、明治村でただの展示物になってしまうのに芸術家たちが反対し「救う会」を結成、善意の政治家たちの力を得て再生の道が開かれた。旧、新、小、大の、二つの芸術創造の入れ物の経過で共通の教訓は、こと芸術に関すると、いかに多くの意見、見解の相違があり、安易に決めようとしても駄目だということだ。
 日本発の音楽ホールは幸いにも救われた。しかし、この本に書かれているように、それは台東区長の力で、芸大がそれまで固く閉じていた地域社会への門戸をやっと開くことで実現した。
 これからも開かれた運営をしてほしい。
 オペラという最高の総合芸術を根づかせ、”経済大国文化小国”の汚名返上のため、第二国立劇場運営も、できるだけ多数意見を聞き、開かれたものにされんことを切望する。