40.同じ曲の洪水になぜ文句を言わないのか

 ジングルベル、きよしこの夜、ホワイト・クリスマス、それにせいぜい赤鼻のトナカイ、荒野のはてに、ぐらいであろうか。別にキリスト教国でもない日本に例年のごとく、いつもおさだまりの曲が流れるクリスマス・シーズンは去った。
 メダカの社会といわれる日本。島国に日本語だけを話す人たちが、ぎゅうぎゅう詰まって住んでいる、まことに統一されやすい国であっても、こうも没個性に、いつも同じ曲をガンガン流すのは許せない。
 クリスマスの前触れのころはまだ、ああ、クリスマスにあやかった商戦の始まりだな、ぐらいに聞き流しているが、だんだんイブに近づくにつれ、ことに街の目抜き通りや商店街、デパートでの同じ曲だけの喧騒は、吐き気をもよおすほど耳についてくる。
 サラリーマンが皆同じようにダークスーツを着、若い女性が皆ミニスカートをはき、皆同じブランドのバッグを手に提げ・・・。こういう視覚的均一化に対して、意義を唱えられる方もおられることだろう。
 だが、視覚的均一は、もっと人間の感覚に刺激を与えているのではないのだろうか。
 野球シーズンに、応援団のブラスバンドが唇もさけよと吹き鳴らすコンバット・マーチとかいうメロディー、あれを吹く人は常に同じ曲を吹いてあきないのか。聞く人はたまには別の曲をやれと文句をつけないのか。
 右翼の宣伝カーのボリュームを常に最大にあげた騒音公害。あんなものを聞いて洗脳される人は一人もいないと信じるが、それにしても常に海ゆかば、勝ってくるぞと勇ましく、などの戦時中のおきまり軍歌。JRの「汽笛一声新橋を」、パチンコ屋の「軍艦マーチ」と、一つ覚えのごとく流し続ける。
 テレビやラジオのCMは直接売れ行きに結びつくから、専門家が選曲作曲をしてちゃんとバラエティーに富んでいるのに、ムード的に待ちに流すものはいつも同じ曲だ。日本人は音楽性がないといわれても仕方あるまい。
 クリスマス曲の洪水が去ってホッとしたのは僕だけか。