43.さらに喜びの深い匿名の善行

前にこのコラムで、損得抜きに、黙って善行を行う日本人の「徳」に触れた。僕は特定の私人、それも功なり名を遂げた企業人の名をあげてコラムでほめるのが嫌いだし、その人も、あくまで一人の足ながおじさんでいたいのだから名前は伏せる。
音楽が大好きなその人は、ポケットマネーで毎年地元で音楽会を開き、もう七年になる。
そこで事業を始めた感謝の気持ちからで、入場料はたったの千円。収入はすべて地元の福祉協会に寄付する。自分の名前もまた、だれが本当の主催者なのかも全く発表しない。良い音楽を低料金で多くの人に楽しんでもらい、しかも恵まれない人のために寄付をして、自分はそっと「徳」を行った喜びを味わう。それがその人の楽しみである。
 演奏家は僕。足ながおじさんは僕に、ちゃんと正規のギャランティーを支払う。僕が良い音楽を提僕できるか否かはお客さまが決めるのだが、少なくとも、シューベルトや山田耕搾の名作の価値を著しく下げずに歌うぐらいの自信は僕にもある − 終わって三十分も僕を待ち、七回続けて聴いたと名も告げずに七本のバラを手渡して下さった奥さん。
 そういう人たちの存在に、歌手は胸を熱くするのである。
 名を名乗って浄財を寄付する。欧米流に、良いことをしたと言ったって素晴らしい善行である。不当なる利益を億とあげ、ビタ一文出そうとしない輩がごまんといる世の中だ。
 しかし、同じ世の中には足ながおじさんよりはるかに貧しいが、営々と永年働いて得た退職金や年金の中から、匿名で寄付をする人もいるのである。
 人間はみな自分のために生きている。人の身代わりになって死んだ聖者も、犠牲の喜びの中に死んだはずだ。本当の喜びは人の称賛より、自分がいかに良いことをしたかを最後に決める、自分の心の中にある。
 よく考えてみると、匿名の善行の方が喜びはさらに深い。足ながおじさんとは、頭がいい人のことを言う。