48. 「線」の歌の良さを知る機会を与えよう

 歌は世につれ世は歌につれと言われてきた。人間だれでもが、上手下手は別として、歌は訓練なしに歌える。そして、歌詞で具体的に心の中を訴えることができる。器楽に比べ、歌こそ万人のためにある音楽である。
 その歌が、線から点に変わった。
 線の歌とは、オペラや歌曲、昔の流行歌のように、伸ばしている声のなかで、さまざまな人間の感情を表現する歌である。点の歌とは、反対に、伸ばさず、ビートという点の上で、歌声というより、しやべり、叫ぶ歌で、その典型的なものがロックである。
 線の歌には訓練が必要とされるが、点の歌は技術がいらないのだから、リズムに乗れさえすればだれでも歌える。活字からマンガへ、習字からワープロへという、訓練をさして必要としない、より簡単なものへと移ってきた世の風潮そのものを端的に示すのが、今われわれのまわりにはんらんする、アイドル歌手たちの、歌とはいえないよう稚拙な歌、若者向きの、電気的にめいっぱい拡大され、もし停電になれば、ドラムのビートだけが単調にきこえるにすぎない歌である。
歌と踊りは、人間が本能的に求めるものだが、歌がビートに占拠されたように踊りもビートに影響され、和洋舞踊からジャズダンスへと、やはり線から点に変わってきた。いま、テレビのCMにオペラやクラシックの歌曲が流れ、童謡ンサートの切符が売り切れるのは、線の歌の良さを見直そうという、点の歌の横暴に対するアンチテーゼである。
 音楽に悪いものはない。点の歌も、線の歌の中で刺し身のつま程度に存在するなら価値はある。
 しかし線の歌の良さを全く知らず、または知ろうとせず、本能をつくビートに酔いしれるのが、若者たちの本流である。
 テレビCMでも、童謡コンサートでも、クラシックコンサートでも、線の歌の良さを知る機会をつくってやるべきだ。