50. これこそ松の特上のお客さん

 先週、福岡でシューベルトの「冬の旅」を歌った。
恋人に裏切られた若者が、傷心のあまり、生きる目的を失い、荒涼たる冬景色のさ中を一人さまよい歩く心情を歌う、全二十四曲の歌曲集。ただの失恋でなく、人生の絶望を、これでもかこれでもかと表現する、深い深い内容の歌曲集である。有名な「菩提樹」があり、「お休み」で始まり「辻音楽師」で終わることを知る方は、相当な好楽家だ。
主催者の要望もあり、当日、歌う前に「冬の旅」のことを、ちょっとお話した。釈迦に説法のおそれありだが、なかには恋人に無理やり連れて来られた人もいると考、是。
「ブーニンの券は売り出し二日で売り切れたそうですが、クレーダーマン(ムードミュージックのピアノ弾き)は二時間でなくなったそうで…‥、今夜の『冬の旅』には空席がありますが、お客様は於竹梅の松ばかりと期待しております」
 あるご夫妻に僕は主催者から券を二枚買ってこの 「冬の旅」にご招待した。その奥さんから概略次のようなお便りを頂いた。
「会場に入る時、当日券を買っている人たちの後ろの方で、あまり音楽会にご緑のないような毛糸の帽子にオーバーを着たおじさんがガマ口を開け、一枚しかない五千円札をつまもうとしているのが私の目に入りました。急用で来られない主人の分を『お使い下さい』と言って差し出しました。『いいんですか、ありがとうございます』何度も何度も言い深々と頭を下げ、最後には涙を浮かべ 『奥さん、お名前を聞かせて下さい』と言いました。人は身なりではない。『冬の旅』を聴くために雨の中を足を運んでいるあのおじさんこそ松の特上の客と思います」
「辻音楽師」 が終わった。
 これで終わりなのをオレは知っとるぞ、というようなまだピアノの余韻が消えないうちの拍手がよくあるのだが、一呼吸置いて、深い、温かい柏手が「冬の旅」に向けられた。
松の特上のおじさん、奥さん、お客様、本当に感謝します。