53.生理的に共鳴する歌舞伎の舞台

 国立劇場で久しぶりに歌舞伎を見た。お芝居の「殿下茶屋聚」と、踊りの「京鹿子娘道成寺」である。
 極悪人だが、なんともおかしみのある安達元右衛門を演じた中村富十郎、豪華な衣装を次々と替え、白拍子花子を踊った中村芝翫、という主役名優の芸を観に、バスを連ねて果た人たちも含め、ほぼ満員だった。
 ヨーロッパ人でオペラ観劇のように、連日の公演でもお客は入っている。日本でのオペラ公演は、世界最高クラスのオペラ座が引っ越してきても、せいぜい一演目五回ほどである。自分の国のものは、体の奥底に共鳴するものが生理的にあかからだろう。
だが、同じ様式総合芸術でも、他の人種をも納得させるために、合理的に発達してきたオペラを歌ってきた、リアリスティックな感覚からすると、すぐに改善されると思うところが散見した。
 例えば、長唄と三味線の伴奏が、役者の声量や劇の内容と無関係に、いつも同じ音量で、役者のせりふが小さいとかき消して、全くわからないことがままあった。
 永年別れていた兄弟が再会、片方は按摩の物乞いになり果てていた、というような重要な芝居が軽く進み過ぎていく。
 坊さんたちが、白拍子の衣装替えのつなぎに踊る群舞が、そろっていない。
 つまり音楽や演出の統括が弱い。
 名優たちの個人芸が最優先で、彼らの見せ場を楽しみにしてお客は来ていても、花道への照明の上側からの一方的な当て方は、花道の左側、昔、芸裏側といって、一般客席並みに扱われなかった席に座った、現代のお客を軽視しているように感じる。
 僕のように、日本語をしゃべるが、伝統芸のしきたりを知らない客や外人客向きではない。そして、そんなお客がほとんどなのが現代である。改善は昔からのしきたりで無理なのだろうか。
 ともあれ、自国の伝統劇を演ずる強みを味わった。日本人が日本語で書いた日本のオペラ、音楽という世界共通語を歌舞伎より強く持つオペラも、もっともっと頑張らねばならない。