55. スカラ座万歳、ヴェルデイ万歳

「ヴァ ベンシエーロ、スル アーリ ドラーテ」
 満員の聴衆はかたずをのんだ。舞台上、ユダヤの奴隷たちのシルエットは、かなた故郷に思いをはせ、身動きもせず歌う。
「行け、想いよ、金色の翼に乗って!」
 指揮者ムーティの右手の指揮棒は殆ど動かない。ただ、左手だけがかすかに合唱、オーケストラとともに、その甘美なメロディーに酔うがごとく、ほのかなスポットライトの下に揺れる。
 歌劇王ヴェルディの書いた数々の合唱曲。アイーダの凱旋の場面、椿姫の乾杯の歌、トラヴァトーレのアンヴィルコーラス等の中でも、最も有名なこの曲。いや、合唱曲だけでなく、リゴレットの 「風の中の羽のように」、椿姫の「ああそはかの人か」、オテロの「柳の歌」などの名アリアより、イタリアではだれもが口ずさむ。
 歌劇「ナブッコ」にもしこの「行け、想いよ、金色の翼に乗って」がなければ、今回のこのスカラ座日本公演にはとりあげられなかったであろう。いや「ナブッコ」そのものが成功したかどうか。
 興奮した聴衆がヴェルディの泊まるホテルのバルコニーの下まで押しかけて歌ったというこの曲。ヴェルディの葬儀にも名指揮者トスカニーニのタクトの下に歌われたこの曲。万人が口ずさめるその美しいメロディーは、ふるさとを想い涙する捕らわれ人たちの心情を伝えて、聴く者すべての心を揺すぶる。
 カラオケバーでマイクを離さないサラリーマンよ。巨大な拡声機によりつくられた人工の声に酔う若者たちよ、ナマの声の素晴らしさを知れ。アマチュア合唱団たちよ、一人一人がトレーニングされた奥深い響き、オペラ合唱の粋を聴け。美声はそれだけで芸術である。
 独唱者は金を出せばだれでもスカラ座に出る。座付きの合唱団、オーケストラ。それこそオペラ座の本当の実力である。
 スカラ座万歳。ヴェルディ万歳。イタリア・ベルカント万歳。三万五千円の券は、この曲のこの演奏だけでも決して惜しくはなかった。