56. 一流と二流以下の歴然たる差

 ある冬の寒い夜中。その昔、ヨーロッパでのことである。
 僕は恩師ヴェルバ教授と翌日「冬の旅」を歌うためにホテルに入っていた。先生は世界屈指の名ピアノ伴奏者。僕はかつて、ウィーン国立音楽院の先生のリート・オラトリオ科で学んだ。あらゆる歌曲集中最高の傑作といわれるシューベルトの「冬の旅」も僕は先生に仕上げてもらった。
 トイレに起き、隣の先生の部屋からもれる明かりを不審に思って、締まり切っていない扉をたたくと、先生はガウンにくるまって、全二十四曲の「冬の旅」の中の「最後の希望」を、移調しつつ五線紙上にべンを走らせていた。
 実は寝る前に、のどの調子が良くないので、明日は「最後の希望」を半音下げてくれるように先生に頼んであった。
 何百回と伴奏したであろう「冬の旅」。書かなくとも、なんなく下げて弾いてくれるであろうと僕は簡単に考えていた。
「最後の希望は難しい」
 先生はいたずらを見つかった子供のようにちょっと照れ、そして促した。
「さ、早く寝て声を治しなさい」
 頼んだのは僕、それも弟子。寒い夜中に万全を期して彼は五線紙に向かった。
 万が一にもミスタッチをして自分の名声に傷がつくことをまず彼は恐れた。そのあとを代わって僕に書かせなかったのは、弟子への、そしてなによりも共演者ののどへの配慮である。
 あの時、僕も教授のような一流だったなら、まず自分の名声を保つため、音楽会の出来を心配して、そして共演者、師匠、年長者への礼儀として、自分で五線紙に半音下げて書くべきであった。一流と二流以下の歴然たる差である。
 音楽家だけではない。あらゆる職業において同じことが言える。
 一流は社会における自分の立場をまず第一に考え、その名声保全のためのあらゆる努力を惜しまない。自他ともに許す立場だからである。
 そこに達するのは真に難しい。