83.人を信じる日本、信じない欧米

 ホテルの合計窓口には客たちが並んでいた。外国の一流ホテルの朝、チェックアウトの人たちで込む時間である。
 僕の前の白人の所でハタと流れが止まり、僕を間にして後ろに並ぶ知り合いらしい白人に説明した。
「かけた電話に、交換手が『応答がありません』と言って切ったのに、料金を取られているのです」
「一番忙しい時に、係りがこんなに少ないなんてばかげていますな!」
 二人の英語での会話を聞いて、さらに後ろに並んでいる僕の日本の友人に事情を説明した。
 われわれは空港に駆けつけなければならないので、イライラしていた。係りの女性は、いやな顔もせずに勧進帳のような、ながーい合計表に定規を当てて問題の項をやっと探し出し、電話の交信リストを出してきて悠然とめくり始めた。
「いいかげんに払ってしまえばいいのに」
「われわれなら、総額だけを見て、およそ正しいと思えば、払うんですがね」
 白人たちは係りの少なさを怒り、白人女性の会計係は彼らの要求を当然のこととして、他の客を待たせても、一本の電話料金を調べた。われわれ日本人は、彼らの細かさにイライラした。
 言語、宗教、風俗、習慣などの異なる社会で暮らしてきた欧米人は、初めての人を疑ってかかる。
 だから、勘定書を細かくチェックし、クレームをつけられれば当然のこと、とその是非を調べる。それにより悪感情を持つことなどない。
 すし屋や料亭で、食べたネタの数をチェックしたり、出てきた皿数を数えて勘定を払おうとしたら、たちまち「ケチな野郎だ」とつまはじきされてしまう。
 血縁社会日本では、初めて合う人でも信じることが、いや信じたという態度をとることが不文律なのである。後で「高い」「ごまかした」と怒るより、その場で白黒をつける欧米式の方がはるかに合理的だ。