90.外国語の会話は流暢さより理解力

「かっこうつけて流暢にしやべろうとするな。アメリカには、発音は悪くてもちゃんと英語がわかる、お前と同じいろんな肌の人たちがいるのだ。こいつは英語がしゃべれる、といったん思われたら最後、ベラベラとやられて、あとはなんにもわからなくなるぞ」
 ついこの間、デトロイトに赴任していった弟に僕は念を押した。言葉で僕はさんざん苦い思いをしてきた。学生時代、金を稼ぎながら英語がしゃべれるようになってやろう、と全然英会話などしたことないのに、ずうずうしくやった進駐軍のインチキ通訳アルバイトで、GIたちにコテンパンに怒鳴られ、片言の音楽用語しか知らずにイタリアに留学したときは、食事するにもふろに入るにも、寮で同室の片言の英語を話すヴァイオリン科の学生のあとをついて回った。ほとんどドイツ語を知らずに初めてオーストリアに住んだときは、ヨチヨチ歩きの下宿の幼女を会話教師としたのだが、あんまり僕に意思が通じないので、その子にバカにされた。
 そうやって覚えた僕の語学は実践的で、日常語をちょっと話すぶんには耳あたりが良いらしい。調子よく楽屋で歌手の同僚たちと話すと、初めは連中と同じに扱われるのだが、途中から、僕が、本当はジョークの落ちを理解していないのに皆に合わせて笑っていることを見破られてドッちらけ。
 だから舞台上で演出家と立ちげいこをするような真剣なときには、どんなにやさしいことでも完全に理解できるまで、ゆっくりしゃべってもらうように心掛けた。
 犬は「ドッグ」でなく「グッグ」。そして「アイ ハブ ア ダック」と言うと、船の入る「ドック」を持っていることになります。英会話の教師が教えた。常識で考え、船ドックを持っている人など、そんなにいやしない。
 会話は流れの中で、発音は少々悪くとも通じるのだ。
 テレビなどを見ていると、なんとか格好をつけ、バタ臭く流暢にしゃべろうと努力している日本人が多いかがわかる。インド人の発音を聴きたまえ。ゴキゴキと独特だが、英語は完全に理解している。会話でまず重要なのは流暢さでなく理解である。