「ヒゲのオタマジャクシ世界を泳ぐ」より抜粋

14 紺碧の海、ケルテスをのむ

 一九七三年四月十六日。テルアヴィヴは快晴であった。前の日から、イスラエル・フィルハーモニー交響楽団は、夏服を着用してステージにのぼった。イスラエルでは、もう夏が始まっていた。
 我々一行四人は、イスラエル・フィルの、ゲストアーティスト専用宿舎から数キロ離れた海岸に建つ、ダンホテルに向かった。四人とは、ケルン市の音楽総監督イストヴァン・ケルテス、ソプラノのルチア・ポップ、メゾソプラノのイルゼ・グラマッキイ、そしてバスの私である。この日、我々はケルテス の提案にしたがって、ダンホテルの屋外プールで水泳と日光浴を楽しむことにしたのである。
 我々は、イスラエル・フィルに招聘されて、ハイドン作曲のオラトリオ『ネルソン・ミサ』を演奏するためにテルアヴィヴに来ていた。ポップもグラマッキイも私も、皆ケルン歌劇場の専属で、ケルテスに推薦されて、一カ月間に十二回の『ネルソン・ミサ』の演奏を契約したのである。テナーのパートは小役なので、テナーだけは、現地のテルアヴィヴの歌劇場の歌手が歌った。
 イスラエル・フィルの定期演奏会を含む十二回のうち、既に我々は、四回の公演を終えていた。ケルテス指揮の『ネルソン・ミサ』は特筆すべき大成功で、全員が良い批評をもらい、聴衆の反応も素晴らしかった。
 イスラエルは、中東の緊張の真只中にある。しかし、国内は平和そのもの。我々は、イスラエル・フィルの客人として、立派な専用宿舎に迎え入れられた。広い個室は世界中のどのホテルと比べても遜色なく、特にケルテスの部屋は、スタインウェイの フルコンサートピアノをそなえ、室内楽の練習が可能な応接間、炯々たる眼光と白髯をそなえたブラームスの珍らしいオリジナル写真がかざられた寝室、それに次の間を備えた超豪華な部屋で、「ルビンシュタインの間」と名付けられていた。ユダヤ人である名ピアニスト、ルビンシュタインは、祖国の誇るイスラエル・フィルが、ゲストアーティスト専用の宿舎を建てる際、多額の寄付をした。その貢献を讃えるために、指揮者用の部屋に彼の名をつけたのである。
 食事の献立は我々の希望を入れてたてられ、それで足りなければ、いつでも自由に、備えつけの大きな冷蔵庫から取り出して食べればよく、練習と公演には、イスラエル・フィル付きの運転手が送り迎えをしてくれた。勿論すべての費用はイスラエル・フィル持ちである。
 最高の待遇と、公演の成功は、我々を快い気分にさせてくれた。特に、ユダヤの血を引き、何度もイスラエル・フィルを指揮するためにこの地を訪れているケルテスは、自分の祖国に帰って来たかのように、はしゃいでいた。
 一九五七年に祖国ハンガリーを逃れてから、彗星のように国際マーケットに現れ、四十三歳の若さながら、すでに世界の名指揮者の一人に数えられていた彼だが、その日は、名声も芸術家としての誇りも忘れ、我々三人と遊んでいた。まるで夏休みを楽しむ高校生のように無邪気にはしゃいでいたのである。すべては平和であった。
 私は一人、ダンホテルの理髪店で散髪をしてプールサイドに戻って来た。ケルテスが待ちかねたように言った。
「さあ、海に泳ぎに行こう」

Next