「ヒゲのオタマジャクシ世界を泳ぐ」より抜粋

 くしくも数日前、地方公演での帰路、我々の車の前を走っていた軍用ジープと、逆方向から来た軍用トラックが衝突して、イスラエル兵士二名が死んだのを目撃した。生々しいその事故現場でケルテスは言った。
「ちょっとした不注意で、せっかく築き上げたキャリアもすべて一瞬にして無になる。気をつけなければ!」
 一九五六年の動乱のあとブダペストを脱出、ローマの教会でヴァイオリンを弾くアルバイトをするなど、苦学して指揮を学んだケルテスは、アウグスブルグ市歌劇場の音楽監督から、一九六三年にケルン歌劇場の音楽監督に就任した。その間の彼のキャリアは、まさにトントン拍子であった。ザルツブルグ音楽祭の開幕に『魔笛』を振り、ピエール・モントゥの後任としてロンドン・シンフォニーオーケストラの首席指揮者となり、ニューヨーク・フィルを初め、シカゴ、サンフランシスコ、クリーヴランド等のオーケストラを振り、コヴェントガーデン、テアトロ・コロン、スカラ座でオペラを指揮するという活躍ぶり。さらに、ロンドン・デッカと専属契約を結び、次々とシンフォニーやオペラのレコードを録音、ケルンのオペラを国際レベルに引きあげたのも彼の力によるものだった。
 ケルン郊外に、サウナ風呂、大きなバー、広い庭園付きの豪奢な邸宅をかまえ、一年の半分はアフリカで猛獣狩りをしたりして遊んで暮らすのだと、これも数日前、おぼれた所と同じヘルツリアの海岸を散歩しながら私に語っていた彼の私生活も、すべて、その才能と、みがきあげた一本の棒から生まれたものであった。
 その彼が、みずから水に飛び込んで溺れ死ぬ、などということはあってはならない。もしもそんなことになったら、私は彼の奥さんに合わせる顔がない。ケルテス夫人はケルンオペラの同僚で、ブダペストにいた頃は、無名の彼よりよく知られたソプラノ、私も何度も共演している。しかしあの時、私ががむしゃらに、遥か彼方に見えかくれするケルテスを救いに行ったとて、何の役にも立たないどころか、私は確実に地中海の藻屑となっていたはずである。私は、混乱した頭でケルテスの無事を祈り、ベッドに横たわっていた。何とか生きていてくれ!!
 その時、騒々しい音とともに私のベッドの隣り、カーテンで間仕切りがしてある所に担架で誰かが運び込まれて来た。
「ユア・フレンド」
 私の枕元にいた衛生兵が、たどたどしい英語で言った。私は飛び上がって隣りに行こうとした。とたんに衛生兵は私をベッドに押さえつけた。「今行ってはいけない」という。隣りでは、何やら慌しい話声がし、それに混じって、バタバタ、バタバタと体の動く音がする。
「イズ・ヒー・アライヴ(彼は生きている)?」
「イエス・イエス」
 押さえ込んだまま、衛生兵は私にうなずく。そのうち音がしなくなって、担架は上に運ばれ、入れかわりに中年の医者が私の枕元に来た。
「あなたの友人は、有名な指揮者のイストヴァン・ケルテスですか?」
「イエス、様子はどうですか!?」
「オー、残念です。入ってきたとき、もう瞳孔反射はありませんでした」
「しかし、体をバタバタさせていたではないですか!」
「あれは電気ショックをかけたからです」
「心臓マッサージは!」
「あらゆる手段は尽くしました」
 無残にもケルテスは逝った。四十三歳の、前途洋々たる才能は一瞬の油断から無に帰した。それはケルンのみならず、世界の楽壇にとっても大きな損失であった。その死の際、一番近くにいたのは、他ならぬ私である。どうして救出に行けなかったのか。私は自分の無能力さを呪った。当然人々は、特に彼の奥さんは、私の腰抜け振りを責めるであろう。平身低頭してあやまってすむことではない。
 そのうちに、イスラエル・フィルの運転手ヨゼフが私を迎えに来た。ベッドから立ち上がると軽いめまいがし、鼻から塩水がこぼれ落ちた。私はケルテスの姿を一目見たいと、上に行こうとしたが、ヨゼフと医者は私を押しとどめ、かかえるようにして車にのせてしまった。その時の私が、かなり逆上した様子だったからであろう。
 ゲストハウスには、イスラエル・フィルの幹部、コンサートマスター、各パートのトップ奏者等、おもだった人々が皆集まっていた。私が玄関に入ると、とたんにポップが私にむしゃぶりついて来た。

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