「ヒゲのオタマジャクシ世界を泳ぐ」より抜粋

 すべての公演をつつがなく終えて、私たちは想いで深いイスラエルをあとにケルンに帰った。ケルンでは我々にとり、特に私には最も責任ある、ケルテス夫人への報告という仕事が待っている。どう説明し、何と言って謝ろうか。止めなかったのも、救いに行けなかったのも私である。我々三人はフィッシャー氏に先導されて、おずおずとケルテス邸のベルを押した。出てきた夫人は我々を見てほほえんだ。無言のまま、まずポップとグラマッキイが夫人と抱き合った。私は何も出来ずに、視線を床におとしたまま、ただじっと立っていた。と、夫人は手を差しのべて私の手を握った。そして黙って私を奥へ引っ張って行った。我々は広間に着席した。コーヒーが運ばれてきた。そこで初めて、私は勇を鼓して口を開こうとした。
「もういいんです」
 夫人がさえぎった。そしてワーッと泣き出すと、上半身を机上にうつぶせて言った。
「私はあの人の不注意が憎くて、憎くて!」
 誰も無言であった。しばらくして泣き止むと、夫人は我々を迎えたときと同じように微笑んで、落着いた声で言った。
「花が用意してあります。お墓に行って逢ってあげてね」
 ケルテスの墓はケルン市内の大きな墓地にある。毎年、命日の四月十六日には花に埋まる。

 

新潮社刊「ヒゲのオタマジャクシ世界を泳ぐ」より
第14章"紺碧の海、ケルテスをのむ"

Back