「歌うオタマジャクシ世界奮泳記」より抜粋

■ 楽団葬

「ケルテスが死んだ、ケルテスが死んだ!」。ポップに抱きつかれて泣かれ、涙とも鼻水ともつかない液体が僕の鼻からまたもこぼれ落ちた。ヨーゼフの車で遺体が安置されている救急病院から帰ってきて、イスラエル・フィルのゲストハウスには、ポップ、グラマツキー、そして僕の、ケルンから客演しに来たゲスト歌手三人と同フィルの幹部全員がそろった。
 ポップの号泣の後は、どうしてケルテスが溺死してしまったのか、と僕に質問が集中した。彼の最後の様子は僕も知らない。ただ、二人だけで泳いでいて、救出に行けなかった非力をわびるのみである。「もし助けに行っていたら、あなたも地中海の餌食になったはずです」。皆は異口同音に慰めてくれた。
「いろいろな指揮者に当たりましたが、みなダメでした。明日の公演はキャンセルします。差し当たり明後日は、合唱指揮のスペルバーさんが指揮します」。楽団代表のレーヴィスさんが言った。ラファエル・クーベリック、ズービン・メータなど海外に散らばるユダヤ系著名指揮者に連絡を取ったようだった。明日のハイドンの「ネルソン・ミサ」の券は売り切れ。払い戻しである。亡きマエストロ・ケルテスの代役を、果たしていきなり三十一歳、無名の合唱指揮者に務まるか?
 翌日。公演会場であるマン・オーディトリウムのロビーで、同フィルの小編成アンサンブルが葬送曲を奏して、ケルテスの棺へのお別れの儀式が、イスラエル・ティル葬として執り行われた。楽員やコンサートでのお客さまたちなどのたくさんの会葬者の中で、ポップとグラマツキーが大きく嗚咽する。
 無理もない。前日まではケルテスに率いられたケルン四人組は、一家のように仲良くこの南の国に来て練習し、演奏し、そして一緒にゲストハウスに滞在し、一緒に食べて遊んでいたのだ。人々は、大きな不幸にあった客人として、はれ物に触るようにわれわれをいたわってくれていた。
 式が終わり、楽員に担がれた棺がロビーを去っていくとき、思わず駆け寄りその一端を担いだ。僕をかわいがったくれた世界的なマエストロ、救うことのできなかった大切な仲間である。棺は霊柩車に入った。涙が溢れた。そしてかなたのドイツの彼の奥さんの方へ走り出したとき、だれかが柔らかく肩を叩いた。「元気を出して!」。駐イスラエル西独大使だった。大使は僕の目を、やさしくじっと見つめてから去っていった。
 ケルテス、グラマツキー、そして僕の三人は、テルアビブで公演のない一夜、西独からのゲストとして大使の家に招待されていた。その夜、ポップはウィーンでの独唱会でいなかった。ハンガリー出身のケルテスは西独のパスポートを持ち、グラマツキーはもともとドイツ人である。
 そして翌四月十八日、マン・オーディトリウムでの「ネルソン・ミサ」の再演が、いや応なしにやってきた。

 

Next