「ヒゲのオタマジャクシ世界を泳ぐ」より抜粋

 ダンホテルは、ヘルツリアという海岸の崖の上に建っていた。プールサイドから崖を降りる短い階段をたどれば、もう海岸である。ポップもグラマッキイも、もう下に行く用意をしている。私は三人のあとについて階段を降りて行った。あとで知ったのだが、その階段の上には、ヘブライ語と英語で「海岸に於ける責任にはホテル側は一切関知しない」ということが書かれてあった。しかし急な階段だったから、皆足元に気を取られ、その注意書きに気付いた者はいなかった。階段の下の扉には番人がいたが、ヘブライ語しか解さないその老人は、我々のしゃべるドイツ語、英語、イタリア語に対し、ただ、イエス、イエス、と答えるだけで、すぐに扉を開けてくれた。我々は海岸で泳いでも良いか、ということを聞いたのであったが……。
 天気は良かったが、地中海は波が高かった。長い海岸には、一般道路から入ってきて、甲羅干しをしている人が、ほんのポツリ、ポツリと点在するだけ。泳いでいる人は一人もいなかったが、遊泳禁止のしるしである旗は、どこにも立っていなかった。
 泳ぎの好きなケルテスは、海岸に着くと、一目散に波打際に走っていった。金髪をセットしたばかりで、波にぬれることを嫌った二人の女性は海岸で見ているという。私は泳ぎが下手くそである。波も高いし、泳ぐことになんとなく嫌な予感がしたのでためらっていた。
「臆病!」
 ケルテスは笑いながら私に手を振って、一緒に来いという合図をすると、波に向かっていった。散髪したばかりの頭は、どうせプールで泳ぐと思ってシャンプーをしてなかった。えいままよ。私は女性たちに時計とサンダルをあずけ、歩いて海に入っていった。ケルテスは、その時にはもう、波の間に頭が見えるだけであった。ところが、ヘルツリアの波はただ高いだけでなく、下の方で猛烈に引っ張っていた。ゆっくりと歩いて入ったのに、引き波にさらわれて、私は一気に数メートルも物凄い力で引っ張られた。とっさに私は危険を察知した。
「危ない。帰れ!」
 私はケルテスに向って怒鳴った。しかしその声は波の音に打ち消された。遥か沖の方にケルテスの頭は見えかくれしている。しかし私の力ではとてもとても、そこまで行って帰ってくることは出来ない。早く浜辺に戻って危険を告げるべきだ。私はそう判断した。そして浜辺の方に向きをかえ、一番得意な平泳ぎで波をかきわけながら、必死に二人の女性に大声で危険を告げた。
「ヒルフェ(助けて)、ヒルフェ!!」
 しかし二人は全く気付かずに砂浜に腰を下ろし、のんびりとおしゃべりをしている。そのうちに波をかぶって水を飲む。もう声を出すどころではない。私は海と格闘し続けた。何分経ったか知らないが、必死に体を動かしているうちに、まず手が動かなくなって来た。仕方がない。私は体力の消耗を避けるため、水面に浮かんで背泳にきりかえた。しかし高波がザーッと顔面にかぶさって来る。寄せ並みに乗って岸に近寄ったかと思うと、またたく間に引き波に沖に連れ戻される。
 それでも私は必死に、まだ動く足をバタバタさせた。果たして岸に向ってまっすぐ泳いでいるのか?平行に泳いでいるのではないことは、波頭を見れば解るが、少しでも斜めに向っていたら、まず絶対に体力は続かない。しかし頭をあげてそれを確かめる余裕などは、心理的にも生理的にも全くない。力の続く限り足を動かし続け、もうこれでギリギリおしまい、という時に、足を下につけてみよう。それで届かなければ一巻の終わりだ。ケッパレ!
 不思議なものである。オヤジが子供の頃よく私にかけていた掛け声が胸をついて出た。それは、がんばれ、の強意語として、オヤジの学んだ開成中学で常用されていた言葉らしい。負けるな。ケッパレ!
 私は最後の最後まで波との闘いを続けた。そしてとうとう足の力もなくなった時、これで最後と、足を下におろした。つま先がかろうじて砂をとらえた。引き波が去って行った時だった。私は最後の力を振り絞って引き波の余波の中を、岸に向って足を運んだ。
 よろよろと近づく私を見て二人の女性は言った。
「日本の神様みたい」
 連中には神も仏も一緒である。髪を振りみだし、眼鏡もかけずに放心した私の姿を見て、仏像を想像したのであろう。私は波打際まで来て倒れた。そして口から泡を出して水を吐いた。初めて二人は 異常を悟った。私は必死に伝えた。
「ケルテスが危ない!」

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