ケルテスのイスラエル・フィル葬は、テルアヴィヴの教会で厳粛にとり行われた。メンバーによる小編成のオーケストラが葬送曲を演奏すると、ひときわ高い嗚咽がポップとグラマッキイの
口から漏れた。人々は我々三人を特にいたわってくれた。大きな不幸にあった、可哀想な客人として大切に扱ってくれた。なかんずく私には、私が罪の意識にさいなまれていることを考慮して、はれものにさわるようにしていた。式が終わって棺が教会を去って行く時、私は思わずかけ寄ってその一端を担いだ。棺が霊柩車に乗せられ、走り去った時、初めて一人の人が私の肩をたたいた。それは駐イスラエル西独大使だった。イスラエル・フィルのレセプションパーティーで、私は日本の戸倉大使から紹介して頂き、その顔を覚えていた。永年西独に住んでいたケルテスは西独国籍を持っており、グラマッキイはドイツ人。我々四人は西独からイスラエルに演奏旅行に来ていたわけだから、この葬儀には西独大使も列席していたのである。
「元気を出して」
一言言うと、彼は私の顔をじっと見て去って行った。
『ネルソン・ミサ』再演の日が来た。考えてみると、我々一行はケルテスの死によって、多大な迷惑をイスラエル・フィルにかけていた。普通なら、客演の指揮者なのだから、公演最中に急死でもしない限り、オーケストラが葬儀を営むなどということはあり得ない。それを行い、しかも団の幹部がつきそって遺体を運ぶ。それはケルテスに対するイスラエル・フィルの愛情の深さ、特に同じユダヤの民であるという同族意識の現れである。イスラエル・フィルのために我々三人が出来ることは、残された公演を立派に成功させること以外にない。
しかし我々のコンディションは最悪であった。三人ともショックで、事件の日以来ほとんど眠っていない。睡眠不足は歌手にとって、声の出ない一番の原因となる。熱こそ取れたが、私の筋肉は痛み、食欲も全くない。そしてケルテスの立っていた指揮台に無名の若者を迎え、ケルテスの解釈による『ネルソン・ミサ』を歌う。果たして二人の女性がその精神的動揺にたえられるのか。悪いことにその指揮者は、ケルテス追悼のために、モーツァルトの『アヴェ・ヴェルム・コルプス』を『ネルソン・ミサ』の前に演奏した。楽屋で出番を待つ我々の耳には、嫌でもこの透明な悲しみを込めた曲が聞こえてくる。客席からのすすり泣きも混る。ポップもグラマッキイもそれを聞いて声をあげて泣き出した。このままでは歌うことなどとても無理である。私は涙をこらえて二人に頼んだ。これ以上イスラエル・フィルに迷惑をかけることは出来ない。
泣くなと言う方が無理だとは承知しているが、ここは涙をこらえて、絶対に最後まで歌い切らなければいけない。そう言って、私は二人を両脇にかかえてステージに向った。客席に出ると、さすがに二人とも嗚咽はこらえたが、自分の席についてもハンカチで顔を押さえ続けている。お客の中からも、もらい泣きをする女性の鼻をすする音が聞える。会場全体が泣き出しそうな雰囲気の中で『ネルソン・ミサ』は始まった。
最初のソロはソプラノのポップで、難しいコロラトゥーラのころがりがある。嗚咽でちょっとでもつまったら、もうおしまいである。満場かたずをのむうちに彼女は立ち上がった。ところが、あれほど意気地なく泣いてばかりいた彼女が、歌になったとたん、見事に声をコントロールしつつ難しいパッセージをしゃんとして歌い始めたではないか。コーラスの中から、ほっとおもわず溜息がもれた。さすがはプロである。そのあとはもう誰も泣かなかった。ケルテスを追悼しよう。皆一生懸命、一丸となって若い指揮者をもりたて、ケルテスの面影を追いつつ、ケルテスの作っていった『ネルソン・ミサ』を演奏した。終って、会場の拍手は、本当にいつ果てるとも知れなかった。
我々は、イスラエル・フィルに更なる迷惑をかけることなく公演をすすめることができた。そして彼等は我々三人に一層親切であった。テルアヴィヴの宿舎を離れる時は必ず団員の幹部が我々につきそい、また休日にはガイドと車をつけて、観光に誘った。ケルテスの不幸によって出来た我々の傷口を、懸命になって癒してくれているのであった。テルアヴィヴの宿舎にも、体のあいている団員が訪れては我々の話し相手をしてくれた。その好意に対し、ただ歌う以外に何も出来ないことを恥じた我々三人は、せめてものしるしにと、植樹することを思い立った。砂と荒野の上に建つイスラエルにとり、国の緑化は国家の大計である。国の内外を問わず、有志は植樹のために寄付を行っていた。「イストヴァン・ケルテスを偲んで」と書かれた樹木が何十本か、十年を経た今、イスラエルの地に育っているはずである。
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