「歌うオタマジャクシ世界奮泳記」より抜粋

■ 水難

 二十七年前の海岸も、二〇〇〇年三月の再訪時と同じように初夏の日差しを受け、水平線のかなたに雲がわいていた。遊泳禁止の立て札が目にまぶしい。イスラエルの首都、テルアビブ郊外に建つアカーディア・ホテルの下は地中海の砂浜。
 今は会場のかなたに突堤が築かれ、穏やかな波が寄せては返しているが、二十七年前は外海からじかに来るたくましい波が、砂をえぐるように引いていっていた。あの引き波の暴力を知っていたら、あの痛ましい事故は起こらなかっただろうに!
 イストヴァン・ケルテス。四十三歳にして当時西独ケルン市歌劇場音楽総監督(GMD)の地位にあった、ユダヤ系ハンガリー生まれの指揮者はあの日、ことさらご機嫌だった。世界的名声を誇ったソプラノ、ルチア・ポップ、メゾソプラノのイルゼ・グラマツキー、そしてバスの僕らは皆ケルン歌劇場専属。
 ケルテスに率いられ、ユダヤの人々が世界に誇るイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団との十三回のハイドン作曲のオラトリオ「ネルソン・ミサ」曲公演のために、一九七三(昭和四十八)年四月の全月を費やし、はや夏を迎えようとしていた南国イスラエルに来ていた。歌唱の少ないテナーは現地のイスラエル人が歌った。
 イスラエル・フィルの本拠地テルアビブのマン・オーディトリウムの下での四月八日の「ネルソン・ミサ」初日は大成功。ケルテスの下でオーケストラも合唱も、我々ドイツからの客演組と寄り添い、競い合い、満員の聴衆は万雷の拍手で何度何度もわれわれを舞台に呼び出した。そしてエルサレムを含めて四回の公演を十五日に終え、翌十六日は公演がない日。われわれは宿舎、イスラエル・フィルの客演演奏家たちだけが泊まるテルアビブ市内のゲストハウスからこのホテルに遊びに来てプールで泳いでいた。
 その十六年前、五六年のハンガリー動乱から逃げ、ローマでは教会でバイオリンを弾き糊口をしのぎ、ソプラノ歌手の夫人の献身を得て、苦学して指揮を学んだケルテスは、六三年にケルン市GMDに就任した。
 その間、ザルツブルグ音楽祭の開幕にモーツァルトの「魔笛」を振り、ピエール・モントーの後任としてロンドン・シンフォニー・オーケストラの首席指揮者となり、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコ等のオーケストラに客演、ロンドンのコベントガーデン、ブエノスアイレスのコロン、ミラノのスカラ座でオペラを指揮、シンフォニーやオペラのレコードを次々と出し−−とトントン拍子に出世街道を歩いてきた。
「海で泳ごう!」。ケルテスが提唱した。で、われわれ四人はホテルのプールサイドからゲートを通って下りて行ったのだった。あの時と同じく、二〇〇〇年三月もホテルから海岸に下りる階段の上には、水泳に対する警告が掲げてあった。でも急な階段を下りる目は上に向かない。そしてあの悲劇は起こってしまった。

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