「歌うオタマジャクシ世界奮泳記」より抜粋

■ 苦難の民族

 ケルテス亡き後の最初の公演を四月十八日に終えて、われわれケルンから歌いに来た三人には、あと七回のイスラエル・フィルとの「ネルソン・ミサ」の契約が残っていた。四月末まで、休演日を入れ、なお十二日間のイスラエル滞在である。
 イスラエル・フィルの楽員さんたちは、交代で悲しみに打ちひしがれたわれわれを丁重にアテンドしてくれた。大港町ハイファ市での公演のときには、折から寄航していた英豪華客船「クイーン・エリザベスU世号」に招待してくれ、他の町の古代遺跡を案内してくれたり−−などなど。
 そして、日本人としての僕が忘れられない思い出が、マサダの城塞だった。イスラエル・フィルがつけてくれた初老の男性ガイドの、流暢な英語の口調が、マサダの山頂に着いたときに変わった。はっきりとこう言ったのを、二十七年たち、同じ場所に立った時、まざまざと思い出した。
「私がこれまでご案内をしてきたのは、職業でやっていたことでした。でもここではガイドではなく、一ユダヤ人としてお話させていただきます」。マサダの砦は世界一低い場所、死海のほとりの荒野の岩山の頂上に築かれた、ユダヤ王ヘロデの要塞宮殿だった。
「エレアザル・ベンヤイール率いるユダヤ人たちは約千九百年前、この砦に立てこもり、下を取り巻くローマ軍に抵抗しました。三年間もちこたえましたが食料も底をつき、今でもこのように地面に落ちている貝殻で、一家の長は幼い者たちから次々に頚動脈を切り、そして最後に自分の命も同じ方法で断ちました」
「ローマ軍が抵抗がなくなったのをいぶかりながら、自分たちの手で営々と築きあげた砦の頂上に通じる道を昇り着くと、遺体の海。そして、虜囚の辱めを受けるよりは死を選ぶ、との『エレアザルの祈り』と呼ばれる遺書を見つけたのでした。そして、わが民族は世界中に放浪の 旅を続け、そしてついこの間この地に再び戻って来たのです」
 千九百年前にローマの兵士たちが築き登った道を、二十七年前と同じようにフーフー言ってたどり着いた頂上からは、かなたの死海があの時と同じようにかすんで横たわっていた。
 思いは巡った。運命は悪戯である。ケルテスが溺死し、ともに泳いだ僕が九死に一生を得たのも悪戯である。もらった人生を大切に歌い続けたい。
 −−一九七九(昭和五十四)年に帰国して既に二十年以上。二十年間の滞欧生活より長く日本で過ごした。僕は両方で生活したものとして、島国、日本語、無宗教(つまり日本教)、経済大国、文化小国などの孤立条件から、他のどの先進諸国に較べても国際感覚を持たない愛するわが祖国が、ユダヤ人たちが歩んだ苦難の道を、いつかたどるような事態になることを心から恐れるのである。

(完)

東京新聞出版社刊「歌うオタマジャクシ世界奮泳記」より
"水難の想い遥かに"

 

Back